平田弘史氏のデビュー当時の話

佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして』副題:誰も書かなかった<劇画内幕史> (文藝春秋、1996年発行、¥2100円)より抜粋

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 日の丸文庫・八興は、このころ正式には光映社という名前になっていた。ここでも、セントラルの『竜虎』に負けまいと時代劇の短編誌『魔像』を出すことになった。
 この『魔像』に描いていた宮地正弘という新人がいた。この宮地がマンガ家となって得意そうにベレー帽をかぶって電車に乗っているときに、偶然出会ったのが、平田弘史であった。
 このとき平田はマンガとはなんの関係もない仕事をしていた。泥だらけの長靴を履き、汚れた作業着を着て重い荷物を担いで水道のポンプ屋に勤める身だった。
「やあ宮地さん、そんな芸術家のようなカッコウをしてなにしてるんですか?」と平田は宮地に聞いた。 「ああ、大阪の出版社でマンガ家になったんだ」といささか得意そうに宮地が云う。
「へえ、マンガ家ってそんなに儲かりますか?」というような話になって、「おまえもマンガを描いたりするのがうまかったじゃないか。いっぺん描いてみろよ、そしたら俺が出版社に持っていってやるよ」と宮地が云った。この一言が、劇画界に雄渾なタッチで武士の生きざまを描く劇画家「平田弘史」を誕生させたのである。
 その夜から朝までかかって平田は生まれて初めての十六ページのマンガを描いた。それこそ私たちのように普段からマンガを描いていたわけではない。ペンすらも宮地からの借り物であった。  そして自分で売り込むわけでもなく、宮地に託しただけである。タイトルすらも人任せであった。おそらく平田もその結果はあまり期待していなかったのであろう。
 宮地によって『愛憎必殺剣』とタイトルをつけられたこの作品は、こうして日の丸文庫に持ち込まれた。それを見た社長は即決で「よっしゃ、これは採用や、来月号に載せる」と云ったそうである。  社長も驚くほど、うまかったに違いない。宮地は日の丸から帰ってきて、平田に「次号に掲載が決まったよ」と報告したそうだ。
 これに対し、平田がどういう感想を持ったか、残念ながら聞いていない。だが、平田の性格からして、飛び上がるほど喜びはしなかっただろうと推察するのだ。
 つねづね平田は「ぼくは劇画を描くのが嫌いだ」と公言してはばからない男である。私などは「そんなことはないだろう、これほどうまく描けるものが……」と思うのだが本当にそうらしい。平田はほかにやりたいことが多すぎるのだ。たまたま劇画描きになったにすぎない、といったところだろう。
 それからの平田は次々に新作を発表して、光映社の目玉作家になっていく。
 まさに、平田は光映社にとって救いの神であったろう。我々をセントラルに持っていかれ手薄になった作家陣に強力な助っ人が現れたのだ。
 事実この時期、平田と次章で述べる水島新司という二人の作家が育っていなければ再興・日の丸文庫もどうなっていたか分からない。
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