私のマンガとのつきあいはまだ月刊誌しかない時代からですから、40年以上になりますので、 ベンジャミンさんが夢中になって読んだという作品群とはほとんど連載雑誌で出会っています。 大学生、サラリーマンなど、色んな時期と状況によって、マンガとの関わりが薄くなったり濃くなったりしていますが、 そんなこんなで、現在の私の商売はマンガの貸本屋です。
こういった私が日本のマンガについてどう考えているかですが、 ●何故、日本でマンガが文化と成り得たか● 話題になっていた手塚さんを抜きにしては考えられないと思います。 私は戦後生まれですが、戦前の代表「のらくろ」と手塚さんの単行本デビュー作「宝島」とを比べてみると、 映画を意識した動き溢れるカットとストーリー展開は一種の革命であったと思います。 発売当時のマンガファンがいかに吃驚したかは充分想像ができます。
それと私は未見ですが、手塚さんの「ジャングル大帝」が連載された「漫画少年」、 この雑誌の存在も大きかったのだろうと思います。 この雑誌の投稿コーナーには、後にトキワ荘に集結する少年達や 後の小説家、映画監督、写真家などそうそうたるメンバーが投稿していたとのことです。 天才少年・石森章太郎さんが投稿を経て「二級天使」でデビューした雑誌でもありますが、 戦後の貧しい時期の表現意欲のある青少年にとって、筆一本と才能さえあればという、 マンガはあらゆる可能性を内蔵した、表現手段の代表だったのではないでしょうか。
そういった人たちが上京し、マンガの裾野はどんどん広がり、 そして、テレビの普及につれ、マンガも週刊誌の時代に突入し、 また、多くの新人マンガ家を育てた「ガロ」、「COM」や 漫画アクション、ヤングコミック、ビックコミック(月刊)などの青年誌も創刊され、 その後も雑誌、単行本ともに膨張しながら、最近発行部数は落ちているとは言え今日に至った。 (高校時代、アクション以下の青年誌も創刊時に読んでいましたが、 ひとりでは読み切れないほどの青年誌が今のように陸続と発行されるなどとは想像だにできませんでした。) (そんな中、トキワ荘の兄貴株であった寺田ヒロオさんが、 当時のドギツクなっていくマンガの風潮についていけずに筆を折ったという、 今考えると象徴的なこともありました。)
文春文庫ビジュアル版に「マンガ黄金時代 ’60年代傑作選」というのがあり、 前述の「ガロ」、「COM」などに掲載されたマンガの短編集ですが、 この時期の雑誌は、少年誌を含め、マンガの可能性を掘り下げた時代であり、 傑作がものにされた時代だったと思います。
もし、手塚さんがマンガを描かず、そして「漫画少年」が発行されていなかったら、 日本のマンガは少し違っていたものになったであろうし、これほどまでの急成長もなかったと思います。
●私にとってマンガとは● マンガの素晴らしさ・可能性を自覚したのは、 学生時代に出会った永島慎二「漫画家残酷物語」を読んでからです。 それまで「漫画」に対しては、娯楽や暇つぶし位の意識しかなかったのですが、 マンガは小説や映画のように人生を表現できるものなんだ、感動を呼び起こせる表現手段なんだ、 と遅蒔きながら気付いた次第です。
繰り返し読みたいと思う作品がこの時までなかったので、 マンガを蔵書にしようなどとは、考えたことがありませんでしたが、 永島慎二さんの諸作品、「カムイ伝」、「人間昆虫記」などの手塚作品、宮谷一彦の作品集などが 書棚に並ぶようになり、雑誌で気に入った作品があると切り抜きをするようにもなりました。
活字中毒人間であり、古本屋巡りが楽しみの私にとって、 マンガは一般書と同様、生活から切り離せないものですが、 「ジョジョの奇妙な冒険」、「寄生獣」のような娯楽作品から、 「人間交差点」、「遥かなる甲子園」、「風の谷のナウシカ」のような感動作品まで面白ければ何でも読みます。 個人的には、読後感が「その内もう一度読み返したい」であったら、イイ作品というわけです。
当然、私は、マンガは文学、映画などに並ぶ表現形態だと思っています。
●外国人から見た日本のマンガ● 漫画で子ども時代を過ごし、ドストエフスキーやサドの小説を読む一方で 青年マンガもという学生時代を経たような私にとっては、 外国人が吃驚するという「通勤電車でマンガ雑誌を読むサラリーマン」の姿は私自身でもあります。
以前にアメリカからの短期留学生が、日本のアニメ、マンガ好きだということで 週一回、三・四カ月間ほどだったか、当店に遊びに来ていましたが、 その関心分野はもっぱらアメリカで見た日本製アニメの原作マンガかSFアクションものでした。 つまり、「スーパーマン」や「スパイダーマン」などのアメリカンコミックスの延長として、 日本のマンガを読んでいるという感じです。 「スパイダーマン」には、平井和正さんが原作を書いた日本版がありますが、 これは超能力を持った青年の悩みとともにアクションが展開される全く別の作品になってます。
現在のアメリカンコミックスについては、全く無知ですが、 思うにアメリカンコミックスには、人生を描くような、大人にも感動を与えるような青年マンガが育たなかったために、 マンガは子どもや一部マニアのものだという誤認があると思います。
最近では、日本の色んなジャンルのマンガが訳されて、外国でも出版されているので、 それらを読んでさえもらえれば、その誤解はとけて、マンガは文学に劣らない表現手段であることが 認知されると思います。
●マンガが子どもに与える影響● 一部のマンガが悪書だという話は、マンガが成長するなかで、何度も繰り返されてきており、 手塚さんでさえ何度もPTA代表などのつるし上げに会っていますが、 また、少年少女の事件が起こる度に浮上しますが、 まるでエジプトの壁画に描かれているという言葉「最近の若い者は・・・・」みたいなものです。
子どもは判断力がまだないから、こんな作品を読ませてはいけないなどという意見は、 子どもの直感的判断力や健全な精神を育てられない家庭教育、学校教育や社会の精神的な貧困に問題があるのであって、本末転倒ではないかと思います。
マンガ家や出版社は、マンガという表現手段を使って、ある種のメッセージを出しているわけで、 当然、表現したことに責任はあるわけですから、何らかの自己規制はあってしかるべきだと思いますが、 筒井さんのいう「ことば狩り」、「表現狩り」に対する、マンガ家・出版社側の自主規制はやって欲しくない。 (売らんがための出版社、編集者ですが、健全な自己規制をしているのかどうかは、一部の少年マンガしか知らない私にはわかりませんが)
●貸本屋と悪書● 貸本屋は単行本になった作品の数々を会員に提供するという有料図書館的立場にあるわけですが、 当然喰わんがための商売ですから、(話題になっていた出版社や編集者のように) 作品の質に関わらず、たくさんの人が読んでくれる、つまり回転が良くて儲かる作品が 一番ありがたいということになります。
有料とは言え、マンガという表現形態を提供する立場ですから、 理想的には、全てに目を通してから、貸本として陳列するというのが、望ましいのでしょうが、 現実には無理な話で、仕入れたものを並べるということになります。
10年目に入った貸本屋稼業ですが、 一度だけ或るマンガ家の作品を全部撤去したことがあります。 というのは、誤った歴史認識を流布するマンガ(マンガエッセイ?)に加担したくなかったからです。 マンガ家の立場から見ると、ある日突然一軒の貸本屋から自分のマンガが消えたということは、 売れる部数が少しは伸びるかもしれないということで、逆に喜ばれそうですが。 いつの世も、判断力を、批判精神を持ち合わせていない大人がいるから、 誤ったものを提供するとそのまま受け取りかねないということでの撤去です。
これは貸本屋として私自身が悪書だと判断した唯一の例です。
●子どもとファミコン● 貸本屋には親子連れの子どもがたまに来店するくらいなので、 子どものマンガ離れが起きているのかどうかは、判断材料を持ち合わせておりませんが、 もしマンガ離れが進んでいるのだとしたら、一般の本も読まなくなる活字離れがあるのではと心配です。
マンガのライバルであるファミコンで気にかかることがありますので、これを機会に意見を聴かせてください。
私は、伝説と化したインベーダーゲームとゲーム屋でピストルで敵を倒すゲームしかやったことがありませんが、 ファミコンゲームというのには、いわゆる喜怒哀楽という感情は伴うのでしょうか。 段階をクリアしたからうれしいとか、ゲームオーバーでくやしいというのではなく、 ハートを揺り動かすような、魂をゆさぶるような喜怒哀楽という意味で。
テレビのプレステUのCMを見る限り、画像処理と迫力だけは凄い進歩があると驚いていますが、 マンガが有している喜怒哀楽が欠けているような気がして、不安感ををいだいています。 独りでゲーム三昧だった子どもが大人になったら、そういう大人はもう誕生していると思いますが、 近未来SFではないけど、ちょっと恐怖を感じています。
文章を直すとキリがないし、とても長くなりましたが、 今回の問題提起を機会に私見をまとめてみました。
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